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化学に咲ク黒霧

イラスト:燎_とろろん

聞き慣れてしまった、助けを求める声。

すべてを優先したいが、どうすることもできず、
ただ、平常に歩くそぶりをする。

せめても、必要以上に、
患者の不安を増大させないために。

◇

何度通っても、
手術室に向かう通路の”異様なまで”の豪華さが、目につく。

可能な限り、患者の心的苦痛を取り除くためなのか。
それとも、この通路を作った連中が、
依頼主である病院との関係を、堅牢にするためか。

見た目だけを模倣した、西洋式グランドホテルの様式。
いや、それ以上の”コンフォート”を目指した理由は、何なのか。

しかし結局、一つの扉を開ければ、
金属と無機質な壁の風景に変わってしまうのだ。

◇

汚れた白衣のポケットに手を突っ込み、
何も知らない患者たちと、すれ違う。

すれ違う患者は、
私のような無価値な人間に対して、どう思っているのだろうか。

迷走する、我が国の目標とすること。
(そして、”それ”の実現のために、治療名目でここに集められる者)

散らかった自分の机に戻ってきた。
積み重なった書類の一番上が、床に落ちる。

◇

……珍しい症例があった。
いや、”極端”に珍しいわけではないのだが、
三人家族のうち、娘一人のみが発症しなかった。

それだけでは、まあ、たまにあることだ。

その後、両親の処置を担当した私は、
酷であったが、本人には「行方不明」と、
以前、面識のあった教師を通じて伝えさせた。

◇

それでも珍しいのは、
その子が養子であり、”二度”も発症を免れていた点だ。

通常なら、発症すると行方不明扱いとして穏便に処理され、
残された子供だけが孤児院に入ることが、今のこの国では珍しくない。

学資を継続できなかった場合は、
そのまま早い段階から労働を始めることになる。

孤児の数は、社会問題化しているほど多い。
そのため、養子になること自体が、非常に”稀”と言える。

だが、この子供は恐らく、
貴重な養子になる経験をしており、
”二度”家族を失う経験をし、
いずれも発症を免れたのだ。


本人に面会し、手順通りの説明をした。

機械的、というのだろうか。
こちらの問いに、「はい」か、「いいえ」。

それ以外の時は、うつむいているだけだった。

◇

家庭環境に問題があったのだろうか。

なかなか子供に恵まれず、令佳(れいか)を引き取ることとなった老年の両親は、
いわゆる世間体のためだと、孤児院の職員に話していたようだ。

そして、彼女の両親は、
遺言状で彼女に学資を遺さなかった。

このままだと、彼女は天涯孤独の身となる。
孤児院にも戻れぬ年齢であるし、
ましてや、この情勢の日本で、まともに生きていくのは難しいであろう。

◇

対応できなかった患者への罪滅ぼしか、
それとも、心の中に残る後ろめたさか。

いずれにせよ、彼女の短期間の学資を負担することとした。

あまり良く考えもせず、住居と、使用人を一人つけ、
同じ高校を再度、継続できるように手続きをした。

◇

だが……しばらくして、
不登校になったことが、先ほどの教師から報告された。

久々に面会に行ってみると、何一つ物がおかれていない部屋で、
彼女はぼんやり窓の外を眺めていた。

物が少ない理由は、
本人が少しでも「いらない」と思うと、捨ててしまうのだそうだ。

そして、窓を”閉めた”まま、一日中空を見て過ごしているのだと。

◇

ただ、不思議なことに、ある炭酸飲料だけが、
いくら補充しても、すぐに無くなってしまうそうだ。

なんだろうか。
無機質な化学式の中の、一部分にだけ、花が咲いたような。

当たり前だが、そんな人間らしい一面もあったのだと、
今更、少し意外だった。

なんだか、少し可笑しく思って、
多めに炭酸飲料を置いておいた。

◇

一か月後。
面会に訪れてみると、特に変わったことは何もなかった。

まあ、少なくとも、顔色は良さそうだが……。

自分の鞄の重みで、ふと思い出す。
たまたま、同じ医学書を二冊、よく確認もせずに注文してしまったのだ。
返品するのも書店の負担になるだろう。二冊とも買うことにしたのだ。

それを本屋に買いに行った帰りだったため、思い付きだが、
暇つぶしにでもなればと、一冊だけ置いて帰ることにした。

◇

変化は、すぐに訪れた。

驚きだった。
基礎も何も無いはずの彼女が、その医学書を読んでばかりいると、使用人に聞いたことだ。

読み手に出会えなかったであろう、あの本がか……。

少なくとも、彼女を空からは遠ざけることには、役に立ったのだ。

◇

二か月後。
自分の机の整理をしていると、使用人から定例報告が入り、いつもと変わらぬ返事をする。

学資の負担も、いつまで続けるべきか……。

だが、精神衛生上も、勿論、健康上も、
このままでは悪化するだろう。
少なくとも、カルシウム不足になられても困る。

散歩で日光不足を解消することだけを目的に、
使用人に、例外的なタイミングで電話をかけた。

◇

使用人を通して、外出について彼女に「閉じた質問」をした。

ここまでの流れから、外出することは拒否されるだろうと、
そんなことを考えていたら、

思いのほか、返事は、”はい”だった。

予定なども特に考えず、散歩のコースなど思い付きもしなかった。
結局、私がいつも買い物で回る本屋を、何件か見て回ることにした。

◇

……道中、いくら話しかけても、
問いに対して「はい」か「いいえ」くらいしか返ってこなかった。
まあ、分かりきったことだったが。

開かれた質問に関しては、答えるのに非常に苦労しているようだった。

時間が経つにつれ、会話することもなくなってきた。
無言の時間が多かったのだ。

だが、なぜだろうか。
不思議と苦痛ではなかった。

◇

一か月後。
使用人から定例報告が入る。

また、空を見る生活に戻ってしまったと聞いた。
医学書は、捨ててしまったらしかった。

◇

いずれ彼女は一人で、この荒んだ国を生きて行かなくてはならない。
この国は、彼女にとって生きにくい場所であっても。

でも、無言の彼女にも、外に出る勇気は”あった”ことを思い出す。

無理はさせたくないが、いずれタイムリミットが来てしまう。
出来れば、このままでいてほしくない。

強く生きていける、そんなきっかけに出会うことは、もう出来ないのだろうか。
新しい場所へ、向かうことは出来ないのだろうか。

◇

私は、久しぶりに面会に訪れた。

いつものように、何も変化の無い部屋。

ただ、そのとき、

窓が”開いて”いて、
身を乗り出して、地面を見ている彼女がいた。

◇

私は、

私は、

「今思っていること、やりたいことがあるならば、そのまま実行すれば良い」

「ただ、私は、あらゆる方法をもって、その結果から、あなたを遠ざけたい」

返事はなかった。
だが、彼女は身を起こして、こちらを向いた。

それは、笑顔?

つたない言葉で、私に言った。

「ハトさんを、 見ていた、の」

「ハトさんが、 羨ましい、の」

「ハトさんに、なれた、ら」

「みんな、 私に、話しかけ、て」

「くれるの、 か、 な」

”彼女”はそれだけ言うと、またうつむいて、
窓を静かに、閉めるのだった。