【回線交換室だより。・外伝】
これは、とある場所に、売りに出されていた中古の西洋館でのお話です。
奇妙な事件が起きたのは、私たちが移住し、行っていた館内のインフラ工事が、ひとまず形になったばかりのある朝のことでございました。
1階土間の交換手さんが、珍しく「たまには2階もお掃除しますっ!」と意気込んで、ばりばりと袴の裾を鳴らしながらサロンへ上がっていったのです。
当館は築年数から考えると、不自然なほど綺麗でしたので、あまり掃除の必要はなかったのですが…。
彼女が開かずのクローゼットの折れ戸の付近を、慣れない手つきでがたたたっ!とハタキで掃除していた、その時でした。
彼女がクローゼットの扉の隙間の奥、無垢の杉材の合わせ目から、ぱらり…と床に落ちたものがありました。
それは、五線譜の束でした。
「執事さん! ク、クローゼットの隙間から、なんだか変な楽譜が落ちてきました……っ!」
彼女が頭の焦げたリボンを揺らしながら1階へ持って下りてきたその楽譜は、一見、普通のピアノ小品のようでした。私が試しに鍵盤でつま弾いてみると、成程、作品としての体は成しているが…。作品の美的表現とは別に作為的な意図を感じ取ることができました。
そのため、私はその奇妙な楽譜を、いったん執事室で保管することにしたのです。

夕方になり、白いチョークの粉がうっすらと舞う静かな講義室へ、私が招き入れたのは、当屋敷のブレーンの一人であり【数学を専門とする助教】でございます。

数学を専門とする助教。相場よりも破格に低い条件で大学に務めているそう。
私が無言で件の楽譜を黒板へ貼り付けたと同時に、助教はメイプルの机を指でつっつっつと弾きながら、青眼色の奥の目を血走らせでいくのがわかりました。
「面白いね。これは……一見、音楽のようだけど。数列のような規則性がある」
「どうも3つの数で1単位のようだ。まるで”コドン”だな」
(※コドンとは、タンパク質を構成するアミノ酸の配列を指定するため、DNA(またはmRNA)の塩基配列が3つずつ並んだ単位のこと)
もういちど教授が机をつっつっつと弾く音が響きます。しかし、その楽譜から抜き出されたコドンが、一体何を意味しているのか分からず、その日は夕の講義が始まる時間となり、一旦お開きにするしかございませんでした。
謎が解けたのは、次の日のことです。
他愛もない時間が流れる昼下がり。誰もいないはずの静まり返った講義室。
そこに、1階土間の交換手さんが、私に見つからないよう忍び込み、メイプルの机の陰で「ビターチョコ」を、幸せそうに頬張っていたのです。
「もぐもぐ、ふふ、おいしい……あっ!?」
私の足音を聞いた彼女は、慌ててチョコを隠そうと、演台の一度も使っていない引き出しの奥の隙間にチョコごと手を突っ込みました。その時、指先に触れた紙の感触に驚き声を上げてしまい、私が一部始終を知ることとなったのです。
それこそが、昨日見つかったものとまったく同じメロディが記された、もう1枚の暗号譜の断片でございました。
しかし、何かが決定的に違っていた。取り切れなかったビターチョコ以外に。
そう、調性(カラオケで言うキー)が異なっていたのです。
初めにクローゼットの隙間から見つかった楽譜は、「F調(ヘ長調)」。
そして、彼女が講義室に忍び込んでチョコを食べているときに見つけた楽譜は、「A♭調(変イ長調)」。
私が迷いのない手つきでその2つの暗号譜を並べ、黒板の特異点へと貼り付けたその瞬間でございました。
空気が、一瞬で凍りつきます。
再びここに招かれていた数学者の助教が、ガタ、と椅子を鳴らしてハッと息を呑むと、チョークをひったくり、黒板の余白へ”五度圏の調性図”を猛烈な勢いでガタガタ書き殴り始めたのです。
(※五度圏の調性図とは、12個の音や調(カラオケでいうキー)を時計の文字盤のように円形に並べ、それぞれの関係性を視覚的にまとめた音楽の早見表のこと)
「F調(ヘ長調)と、A♭調(変イ長調)……! 調性図におけるこの2つの関係は、円周上で完璧な『90度』の位置にそれぞれ直交している。そうか、そういうことか……! 【それぞれ2つの楽譜から抽出した暗号配列(コドン)を90度に直交させれば、絶対的な幾何学の座標となるんだ】」
暗号の第一フェーズは、彼の知性によって瞬く間に解き明かされました。しかし、それと同時に、講義室にはさらなる深い霧――新たな謎がすでに潜んでいたのです。
それは、適応するスケール(縮尺)の問題。
暗号コドンはそれぞれが対として美しく噛み合うため、2つの数列同士の組み合わせ方はさほど問題ではありませんでした。
(片方を表コドンとすれば、必ず対になるもう一つの裏コドンが存在する。この2つの数列は、推察通りに組み込めるようだ。つまり、2つの数列の組み込み方自体は、元々明白なのだ。DNAの二重らせんのように)
『だが、もしこれが物理的な位置を示す座標だと仮定するなら、このコドン一つが、一体どれほどの長さを意味しているのか。1cmなのか、1mなのか、はたまた1kmなのか。
それが解けなければ、ただの羅列だ。具体的な根拠に基づいて決定しなくてはならないな。しかし、ヒントとなるものが途切れてしまったようだ』
「だが…ここで立ち止まっていては、時間を浪費するだけだ。とりあえず進めなくては何も始まらない」
私は助教の『I need a map.』を合図に、カバンから当館の見取り図を引っ張り出し、丁寧に黒板へと貼り付け、並べていきました。
『もっとも単純に、そして短絡的に考えれば、この2枚の楽譜がそれぞれ「置いてあった場所(クローゼットの隙間と、未使用の講義室の引き出し)」の距離から、逆算してスケールをある程度導き出す方法が有効だろうか。』
しかし、助教はメイプルの机を指でつっ、つっ、つ、と不規則に弾きながら、苦々しく首を振りました。
『楽譜なぞ、人間の手で容易に移動できる不安定な紙切れに過ぎない。この暗号の作成者がどこにそれを最初に配置したかなど、数理的なスケールを決定づけるための、大した根拠にはなり得ないだろう――。』